2026年、ナガシマグループは創業100周年を迎えます。
100年という歳月を振り返るとき、私たちはどうしても「会社の歴史」を語りがちです。何年に何を始めた、どこに拠点を作った、売上がどう伸びた──。
けれど、その100年のいちばん最初には、たった一人の人間がいました。
長島國治。茨城から16歳で単身上京し、渋谷の片隅で薪炭販売を始めた青年。
大八車一台を引いて、一軒一軒、顧客を回った男。
その人が、今日約290名のグループ企業の礎を築きました。
100周年特設サイトではこれまで、プロジェクトの背景や社員の声、会社の沿革をお伝えしてきました。今回は少し視点を変えて、創業者その人にフォーカスします。
三十三回忌の際にまとめられた写真資料をもとに、数字やデータでは語れない「長島國治という人間」の輪郭を、写真とともにたどります。
「使っている鍬は光る」
── 長島國治が生涯大切にした言葉。日々の仕事に誠実に向き合い続ければ、その道具も、その人も、自ずと輝く。
茨城の少年、
渋谷で旗を立てる
長島國治は茨城県猿島郡岡郷村──現在の古河市にあたる利根川北岸の農村に生まれました。
大正時代、地方の農村に将来の選択肢は多くありません。
しかし國治は16歳で故郷を離れ、単身東京へ。
恵比寿で薪炭の販売を始めました。
当時の渋谷は、現在のような繁華街ではありません。
関東大震災(1923年)の復興期にあたり、建設需要が急増していた時代です。
その需要の中で、國治は木材の扱いに長けた技術を活かし、
やがて木箱製造──つまり「梱包」の仕事へと踏み出していきます。
1926年(大正15年)、「長島國治商店」を創業。
これが今日のナガシマグループの始まりです。移動手段は大八車一台。
顧客のもとへ自ら足を運び、信頼を一つずつ積み上げる──その日々が、100年続く企業の最初の一歩でした。
力強いまなざしに、事業への気概がにじむ。
戦火をくぐり、
焦土から立ち上がる
事業は順調に拡大し、1943年には海軍監督工場に指定されるまでに成長しました。
しかし1945年5月、東京大空襲が恵比寿の工場を襲います。
設備も資材も顧客台帳も、すべてが灰になりました。
故郷へ ──
海軍の命で古河に製材所を築く
戦時下、海軍技術廠から國治に一つの命令が下ります。
「茨城県古河市に臨時製材所を設置せよ」──。
古河。それは國治が16歳で出た岡郷村の、すぐ隣の地でした。
四十を過ぎて、彼は故郷に戻ることになります。
父も母もすでに亡く、あの頃の田んぼも家も、もう同じではありません。
それでも土の匂いと利根川の風だけは、十六歳の朝と変わらぬままでした。
感傷に浸る暇はありませんでした。
木を伐り、製材し、東京へ送る。
故郷の木が精密兵器を包み、前線へ届いていく──そういう時代でした。
戦後の復興期、國治は東京中を駆け回った。
しかし翌1946年、國治は資本金50万円で「長島興業株式会社」として再出発を果たします。焼け野原の中、まず手がけたのは住宅建設。
時代が求めるものに応えながら、本業である梱包業への回帰を見据えていました。
復興の優先順位は、意外なものでした。
1946年7月、國治は工場の本格再建より先に、戦火で焼け落ちていた恵比寿山下伏見稲荷を私財で再建造営しています。
「土地の神様に帰ってきてもらわなければ、何も始まらない」──現地に伝わる縁起板に、その厚志が今も記されています。
やがて朝鮮特需が追い風となり、梱包・輸送の需要が急増。
國治はこの波を確実に捉え、会社を成長軌道に乗せていきます。
事業を拡げる ──
戸塚、そして松本へ
國治の経営哲学は「顧客のそばにいること」でした。
取引先が増え、扱う荷物の量が拡大するにつれ、東京の本社だけでは対応しきれなくなります。
國治は迷わず、拠点を増やす決断をしました。
「本社東京渋谷」の文字が時代を伝える。
雪深い信州の地にも事業を展開した。
戸塚には倉庫と工場を構え、横浜港に近い立地を活かした輸出梱包の拠点としました。
「長島梱包 戸塚倉庫 本社東京渋谷」──門に掲げられた看板には、渋谷で始まった事業が着実に広がっていることへの静かな誇りがにじみます。
さらに長野県松本市にも工場を設立。
雪山を背景にした従業員たちの集合写真には、地方にも國治の信念が根付いていることが見て取れます。顧客のそばに行く、現場に足を運ぶ──大八車の時代から変わらない姿勢が、そのまま事業拡大の原動力となりました。
背景の雪をかぶった山々が、信州の厳しい自然環境を物語る。
この地でも國治の「まず、やる」精神が息づいていた。
信頼の証 ──
郵政省指定、そして東京都知事賞
長島梱包の技術と信頼性は、やがて公的機関にも認められていきます。
郵政省の運送指定業者に選ばれ、防衛庁の包装規格委員にも就任。第五回輸出包装展では東京都知事賞を受賞しました。
「郵政省運送指定業者」「防衛庁包装規格委員」「東京都知事賞受賞」の文字が並ぶ。
創業者が一代で築き上げた信頼の厚みがわかる。
パンフレットに残されたこれらの肩書きは、単なる看板ではありません。
國治が毎日の仕事を通じて積み上げてきた信頼──日々の仕事に誠実に向き合い続けた、その信念の目に見える結実でした。
そして國治は一企業の経営者にとどまらず、全国木箱工業連合会の会長も務めました。
通商産業省監修のもと1972年に発行された『全国木箱・梱包銘鑑』では、國治自身が「発刊にあたって」の挨拶を寄せています。
業界全体を束ねる立場にまで上り詰めた事実は、大八車一台から始めた男の歩みの到達点を物語っています。
経営者の顔、
一人の人間の顔
國治は厳格な経営者でしたが、残された写真の中には、別の表情も見えます。
胸の勲章と、奥様の和装姿。
花に囲まれた華やかな場での一枚。
叙勲を受けた際の記念写真では、勲章を胸に、和装の奥様と並んで座るお二人の姿があります。
厳しい表情の中にも、長年連れ添った伴侶への信頼と、ここまで歩んできた道のりへの万感の思いが伝わってきます。
また、バスの座席で書類に目を通すスナップや、電車の中で静かに前を見つめる一枚からは、常に「次」を考え続けていた人の横顔が浮かび上がります。華やかな式典の写真がある一方で、日常の移動中に見せるこうした素の表情こそ、國治という人間のいちばんの魅力かもしれません。
長島國治が築いたもの ──
写真で見る創業期の風景
三十三回忌の記録資料より。
創業者とともに歩んだ人々と、事業の軌跡。
國治を中心に、社員たちの顔が並ぶ。まさに「全員で会社をつくる」時代。
長島國治 略歴
ナガシマグループ 創業者(1904–1972)
| 1904 | 明治三十七年十月十三日、茨城県猿島郡岡郷村(現・古河市)に農家の四男として生まれる |
| 1919 | 十六歳で単身上京。芝の合資会社稲数製箱所にて木箱製造の修業を始める |
| 1922 | 水戸歩兵第二連隊にて一年十ヶ月の兵役に就く |
| 1926 | 恵比寿にて長島國治商店を創業。大八車一台で薪炭配達と木箱製造を始める |
| 1935 | 合名会社に改組。大手電機メーカーの精密梱包を受注 |
| 1937 | 戸塚工場を開設。梱包専業として本格的な事業基盤を築く |
| 1940 | 運送会社の統合合併により宝運送の社長に就任 |
| 1944 | 日本梱包工業株式会社を渋谷区恵比寿に設立。海軍監督工場に指定される |
| 1945 | 五月、空襲により全施設焼失。八月十五日、終戦 |
| 1946 | 一月、焼失から八ヶ月で復興再建。長島興業株式会社に改称 |
| 1948 | 長島梱包運輸株式会社に改称 |
| 1952 | 長島梱包株式会社に改称(現社名) |
| 1969 | 藍綬褒章を受章 |
| 1972 | 逝去。享年六十八歳。従六位 勲五等 瑞宝章を賜る |
道路の両側に花輪がずらりと並んだ。
國治の存在の大きさを物語る。
歴任した主な役職
全日本輸出梱包工業組合連合会 初代理事長
全国木箱工業連合会 会長
社団法人東京包装協会 会長
東京都運送事業協同組合 理事長
東京都包装木箱紙器協同組合 理事長
東京貿易会ヨーロッパ旅商団 団長
父から受け継いだその信念を生涯貫き通した。
その一生は弔辞で「梱包界の歴史そのもの」と称された。
大八車一台から始まった物語は、
100年を経て、今も続いている。
長島國治が遺したのは、会社という組織だけではありません。
「目の前の仕事に誠実に向き合う」「顧客の信頼を一つずつ積み上げる」という姿勢そのものが、100年を経た今もナガシマグループのDNAとして受け継がれています。
100周年は、ゴールではなく通過点です。創業者の志を胸に、次の100年へ。
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