
日立製作所が通信機の保守を行うため、同社の100%出資子会社として日立電子サービス(現 日立システムズ)が設立され、発足と同時に長島梱包との取引が始まった。
旧長島ビル(昭和47年築)の完成に伴い、日立電子サービスを誘致。事務所及び部品倉庫として使用していただくことになる。当時は長島梱包の社員がコンピュータ部品のハンドキャリー業務と、夜間の緊急配送作業を行っていた。
年商が昭和55年18億、翌56年は23億と拡大していた長島梱包。長島子之吉社長がグループ経営の構築を図り、長栄産業、ナガシマ包材サービス株式会社(昭和59年設立)、ナガシマ物流サービス株式会社のグループ3社を設立。
日立電子サービスの配送作業などを長島梱包からナガシマ物流サービスに移管する。
営業課目(目的)1.木箱製造 2.梱包発送業務 3.梱包資材販売 4.コンピュータ、通信機器、家電品の発送及び搬入 5.コンピュータ、通信機器、家電品の修理及び再製 6.上記各号に附帯する一切の業務
主要顧客:日立製作所 日立電子サービス 特殊金属工業 坂本商事
各得意先製品の梱包と軽車両運送のほか、コンピュータ用部品・製氷機類の入出庫を主たる業務とする。
名古屋にあった長島梱包の協力会社、光洋梱包をナガシマ物流サービス設立と同時に吸収合併し、日立電子の電子秤梱包作業を受注、その後日立製作所旭工場の移転作業などを日立物流経由で受注した。
同時に恵比寿でも物流関係の事業を始めた。これがナガシマ物流サービスの始まり。
恵比寿倉庫での主な業務は、業務用大型冷蔵庫の入出庫作業。事務所も倉庫内にあった。
名古屋では、長田電機、東京重機工業(JUKI)、日立物流の仕事を三本柱としていた。
日立電子サービスの依頼により、ファックスやCD、ATMの移設作業を請け負う。当時は社員も少なく、近辺であれば自社トラックで、遠方であれば発送後現地に赴き、古い機械を引取り日本全国の作業対応を行なった。また、ナガシマ物流サービスの設立前から、恵比寿地区の主な運送会社は長島梱包の協力会社として運送業務を行なってきたが、千秋運送、フジエ商会、本田物流サービスは、現在も継続して当社の輸配送業務を担っている。
この頃はまだコンピューターの物流やパーツ物流の直接請負は少なく、倉庫の入出庫業務と移設移転が主だった。
長島梱包が受注しナガシマ物流サービスが実務を行うという形態。
昭和63年3月 長島梱包の物流サービス部とナガシマ物流サービスの事務所を一体集中し合理化を図る。物流サービス部を含み、第二倉庫1、3階に分かれていた事務所を改修増築した1階に統合。一体化、緊密なコミュニケーションが可能になる。
バブル時代
銀行や証券会社の業務も多く、残業も休日出勤も当たり前の時代だった。
平日は官公庁・一般企業の移設作業が朝から夜まで続き、金曜日の夜からは証券、銀行系の移設作業。端末を一時退避、土日に戻すという、休みが取れる状況ではなかった。防衛庁、都庁、水道局など、毎日のように端末の移設があった。忙しい毎日だけど仕事から帰ってきてからの一杯が楽しみだった。
自社だけではなく、協力会社総出でも追いつかず、赤帽などを同行させ、慣れてきたら単独で作業できる人員を増やしていった。
それでも、お断りしなければならない依頼もあるくらいの膨大な仕事量だった。
今と違い、当時は見積書、運搬手配指示書や請求書も全て手書き。一番大変だったのは、締めの20日が金曜日の時。
銀行、証券会社の仕事が終わって会社に戻ってから請求書を起こす。書き終えたら4〜5センチくらいの請求書の束になった。
今では考えられない時代だった。
7階建ての新長島ビル(恵比寿)完成により東陽町事業所の作業が2拠点体制となり従業員50名のうち20名が新長島ビルへ移る。7階が当社、6階が日立電子サービス、5階から下が部品倉庫、1階は大型トラックが切り回せる荷捌き場があった。
転換期
日立電子サービスから依頼されるパソコンやサーバーとネットワークをセットにした移設作業が減っていく一方で、扱う機器がオフコンからATMや銀行端末に変わっていき、現金を扱う端末に変わったことで神経を使う作業が増えた。
元美容師、元サービス業など異業種からも多く人材を採用した。職安(ハローワーク)がメインだが、就職情報誌に1回だけ掲載したことも。一本釣りも多かった。挨拶をしにきただけのつもりが、そのまま面接・採用となった社員も。
緊急部品関連部隊が越中島へ
365日24時間稼働状態の中での引越し作業は、時間に追われて右往左往したが広い敷地が徐々に部品で埋め尽くされ、あっという間に見事な部品庫に様変わり!環境に慣れるまでは四苦八苦でした。
ITサポート部にキッティング作業の依頼があってもキッティング作業場所の確保が難しかった。当初は都度場所を借りて作業をしていたが、お客様からの要望も増えつつあり、東京港に監視カメラや入退出管理などの設備を持つキッティングセンターを構えることができ、一つの事業としてキッティングが立ち上がっていった。
青海埠頭にあった事業所が門前仲町に移転。移設・移転部門とITサポート部門が一つにまとまる。 拠点集約により、グループ相互応援での業務効率、稼働率が向上した。
現在のICT事業の基礎ができたのは、この頃。IT部門が青海から門前仲町に移ってきてからだ。 当初の人員は4名。 でんさテクノ東京の元でパソコン関係の仕事を受注していたが、でんさテクノ東京の事業転換期と重なり受注が厳しくなる。将来の事業展開を見据え、ATM事業に活路を見出そうと推進。当時はATM保守はでんさテクノ東京のCEが現地に出向いてオンサイド保守を行なっていたが、これが将来はエンジニアドライバーによるユニット交換になると考え、輸送と組み合わせた事業をでんさテクノ東京に提案し、事業スタート。ゼロからの立ち上げのため、ヒト・モノ・カネ、時間がかかる。
当時の社内報
越中島事業所は日立電子サービス保守部品センター内にある。企業関係のコンピュータ保守部品の全てが集約されており、故障などで保守が必要な時に、品種9万、個数32万を越す部品を全国に配送している。荷受部品から出庫・発送までを請け負う。部品要求のうち、緊急配送が平日で150〜200件。40台の軽自動車が24時間態勢で待機している。
当時の社内報
ナガシマ物流サービスの3つの柱
1)緊急輸送・入出庫
日立電子サービスが保守サービスを担当する情報関連機器の障害時に使う保守部品在庫を抱えるLSC(越中島・東陽町事業所)からお客様に正確かつ迅速に部品を届ける輸送部門とその保守部品の入出庫を管理する部門
2)ITサポート部
これから伸ばしていく部門。
主に日立電子サービス日立FS(株)からのATM機器の設置作業・動作確認を行う現地調整、機器の移設・再設置確認作業を行う部門
3)移設・移転部門
IT部門に関連する情報関連機器の運搬、移設を行う移設部門と企業の移転などを担当する移転部門。
機器の保管・輸送・回収を含めた一連の仕事の依頼の割合が増えてくる。
日立システムズの本社移転作業を請け負う。10月から12月まで3ヶ月休みなし。11階建の港区の本社ビルから、川崎、磯子、大崎、越中島に一斉分散させる社員8,000名分の大規模作業。作業員は数百人に及ぶ。平日は打ち合わせ、お客様が休みの金曜夜から月曜の朝にかけて昼夜交代の24時間態勢で作業に臨んだ。
関東圏3万台のPC設置作業請負
当時はまだ設置場所に作業員が赴き、その場で作業をしなければならなかった。
毎日100名以上の作業員が必要な日もあり、ICT作業員の確保が重要な命題だった。当日、台数の変更等があると段取りの変更や作業員の補充等、現場も大変だが管理する側も胃が痛くなる毎日だった。
しかしそういったひとつ一つの業務の積み重ねが今につながっていく。キッティング自体はもちろん、人やスケジュールのマネージメント、現場の管理・統制の仕方など、実際に作業を進めていく中で学ぶことも多く、そのノウハウの蓄積は今のICT部門の強みとなっている。
日立システムズ移転作業
日立システムズ本社移転作業は1年がかりの大仕事。なかでも発電機がJR線路に隣接しており、撤去のためにはJRの許可が必要。許可を取るのに3カ月、鉄道警備員の手配もしなければならない。東京には100名ほどしかいない警備員をなんとか2名手配することができた。撤去当日、最終電車から始発の30分前しか時間がなく、段取りを間違えると始発に間に合わない。事前準備を周到に行い最終電車が通り過ぎると同時に一気にクレーン車で吊り上げ撤去。なんとか時間内に終わらせることができた。
新たな挑戦
物流に特化して出庫梱包発送がほぼ全てだった時代から、現在はキッティングなど他の分野の仕事も増えてきた。 これからも新しいことに、チャンスがあればどんどんチャレンジし、会社の柱である輸送を絡め、様々な分野に仕事の幅を広げて行く。 経験に左右されず、やる気のある社員に新しい仕事を任せることも多い。任された社員はプレッシャーを感じつつも、果敢に挑戦し、やり遂げた時には、ひとまわり成長を果たしている。